最新のあいふぉん

iPhone 13が出たタイミングで12Proを買って使っていた。その前は8。iPhoneは5から使っている。

17くらいまで機種変更をするつもりはなかったけど、諸事情で15Proに変更した。12Proはまだまだ使えるし、まだまだ使う。

現物見ないまま楽天で買ったんだけど、開封してまず思ったのが、カメラの出っ張りすげえ。

わんこの写真を撮って12Proで撮った写真と比べてみたけど、iPhoneの画面サイズで見る分には違いはわからなかった。

置いた時に傾くのも気に入らず、そのうち慣れるのはわかっているけど、さっそくちょっと後悔している。

PC含め20年以上りんごを使っているけど、年を重ねるごとにださくなっていく……悲しい。

 

リアリティ

最近、井上靖氏の「敦煌」を買った。

井上先生の本はこれで2冊目。

10年くらい前、高野山と熊野詣に憧れて、母を連れて和歌山に遊びに行った。

親子揃って甚く気に入り、5年かもう少し前か、今度は祖母を連れて、親子三世代で遊びに行った。それっきり行く機会がないけれど、時間ができたら、またゆっくり回りたい。

話が逸れたけど、旅行の後で和歌山のことをいろいろ調べて補陀洛渡海を知り、たどり着いたのが井上先生の「補陀落渡海記」だった。タイトル作を含む数編の短編集だ。

補陀落渡海記。短いお話だけど、とても怖かった。自分の意志とは関係なしに追い詰められていく金光坊と、その苦悩を知らず無意識に追い詰めていく人々、意味もわからず手を離した人たち。どの宗教もある種の狂気だと、無信心な自分なんかは思ってしまうんだけど、その狂気をぎゅっと詰め込んだ話だった。

タイトル作が読みたくて買っただけなので、それ以降、しばらく放置していたけれど、ちょっと時間が余ったタイミングで最初の話を読んで、そこから一気に読んだ。流れがスムーズすぎて一気に読んでしまった。

とてもおもしろかったけれど、井上先生の他の作品を読もうにもどれを選んでいいかわからず、それっきり手に取る機会がなかった。最近買った、ある作家さんのエッセイ本で井上先生の「敦煌」が紹介されていたので、便乗して買ってみた。

北宋の時代の中国が舞台。正直、中国史はまったく興味がなく、北宋と言われてもピンとこない。調べたら960年から200年ほど続いた王朝らしいが、三国志も知らない自分には、どういう時代なのかはやっぱりよくわからない。

史実に基づいたフィクションだった。読み終わった後で、ようやく「フィクションなのか」と気が付いた。

主人公が科挙の最終試験を寝過ごしたところから話が始まる。会場で寝過ごして試験をすっぽかした。エリートのあり得ないミスから始まるんだけど、いやいや、と突っ込む間もなく、やっぱり驚くほどスムーズに話が流れていく。

なんとなく、から始まった主人公の歩みが、史上稀に見る大発見につながっていく。史実とフィクションを織り交ぜて進むストーリーは、事前知識が一切ない自分にはまったく展開が読めず、不安と期待でページを捲る手が止まらなかった。

読み終えてフィクションと気が付いて、誰が実在した人物なのか調べてしまった。

国史は相変わらず興味がないけど、井上先生の他の本が読みたくなった。数冊ほど積み本になっているので、それを読み終えたら。

 

敦煌」を読み終えて、史実に基づいたフィクションだとわかった時、ふと「木を植えた男」を思い出した。

初めて読んだのは小学生の時で、本当にあった話だと思い込んでいた。先生に「一部は史実だけど、これは作り話だ」と言われて、そりゃそうか、とは思ったんだけど、本当にあったことなんじゃないかな、とも思っていた。

社会人になってから絵本を買って読み返して、やっぱり本当にあったことなんじゃないか、と思った。今も思っているんだけど、この「敦煌」も、何年か後に読み返して、同じことを考える気がする。

始めてみた

特に書きたいものがある訳ではないけど、なんとなく始めてみる。

2023年は日記を書こうとノートを用意していたけど三日坊主で終わり。ブログなら手軽かと思ってやってみることにした。しかし、もう11月とか嘘でしょ。

小説、ゲーム、アニメ・漫画の話が多いと思う。所謂オタクという分類。

 

今年の2月、1月に永井路子氏が亡くなられたというニュースを見てから、家にある永井先生の本を読み返した。

といっても「炎環」「雲と風と」「悪霊列伝」「寂光院残照」「この世をば」「噂の皇子」くらいしか持っていないけど、読んだ。

夢中で読んだ本もあれば、正直、飽き飽きしながらなんとか読んだ本もある。

最初に買ったのは「炎環」だった。これは夢中で読んだ。短編で読みやすいのもあったけれど、源氏と北条家の人々がどこに向かうのか気になって、一気に読んでしまった。ええ、これで終わり? のような話もあるにはあるけど、最後まで読み終えてため息が出た。感嘆の、というやつ。炎環というタイトルを読み返して、なるほどと思った。

今いちばん気に入っているのは「この世をば」

藤原道長が主人公で、平安時代が大好きな自分にとっては垂涎の本だった。が、2021か2022年に探し始めた時にはすでに絶版になっていて、メルカリをチェックし続けてようやく手に入れた本だった。そういう思い入れもあるかもしれない。三部作らしいが「王朝序曲」と「望みしは何ぞ」はまだ買えていない。

貪欲に権力を求めたというよりは、成り行きでトップになっちゃった道長。なんだか頼りないなあ。でも、そんなものなのかもしれない。とてもめんどくさい男で、目の前にいたら引っ叩いてやりたくなったと思う。そういうイメージがなかっただけに、おもしろかった。

 

永井先生の次は、池波正太郎氏の本を読み始めた。池波先生の本は、真田家絡みばかり持っている。真田騒動とか獅子とか、真田太平記とか。真田太平記について書き始めると軽く数万字はいく気がする。つい最近、何度目かの読破。褪せない。

 

合間に、今村翔吾氏の「童の神」を読んだ。平安時代の小説を探していた時に出会った本だった。「童」の文字を持つ鬼の話。真田太平記がお好きだそうで、文章の好みが合うのかもしれない。とても読みやすかった。三部作になるらしく、続刊が待ち遠しい。

「幸村を討て」も読んだけど、こちらは……少し苦手かもしれない。理由は、信之や家康を含めた登場人物たちが、妙に小物として描かれているように思えたから。自分の中で池波先生の真田家が神格化されているせいかと思ったけど、そういえば童の神でも、安倍晴明が普通のじいさんのように見えたから、そういう描き方なのかもしれない。

 

ところで、自分は日本史が好きだ。飛鳥時代後期〜幕末あたりを広く浅く好きだったけど、ここ数年、平安時代に強く惹かれている。なぜだろう。考えてみた。

たぶん貴族社会への憧れだ。この世を我が世と思っちゃうような人がいたり、和歌をはじめとした言葉遊びもおもしろいし、神事という、もっともらしい儀式も興味深い。

帝と、その周辺にいる貴族たちがすべてを決める。清々しいまでの選民意識。

「平家にあらずんば人にあらず」が驕り高ぶりの代名詞みたいに揶揄の対象になっているけど、それよりも前から「貴族にあらずんば人にあらず」だよね、と思う。由緒正しい地方の農民である自分にとって、そういう選ばれた人たちで構成された社会は、簡単に言ってしまえば、外国の映画スターに憧れるようなもの? かもしれない。

ただ、離れた位置から見ている分にはキラキラしているけど、実際に中に放り込まれたら窒息しそう。絶対に入りたくなし絶対に入れないからこそ余計に憧れるのかな、とも思う。

 

みたいな取り止めのない話を、ダラダラ書いていきたい。